物事には大抵良い面と悪い面が存在していて、どちらを選ぶかはその人なりの考え方や感覚で決まる。そして、選んだものが自分にとって満足のいくものであったかどうかは、その人の考え方で変わる。これは生まれ持ったセクシュアリティも例外ではなく、それぞれのセクシュアリティで過ごすことの良い面・悪い面があると思う。そして自分のセクシュアリティに満足しているかどうかはその人の捉え方次第だと考えている。
自分は男性として生まれ、男性として育つことに違和感はなく、男性として生きている。おまけに恋愛対象も男性なので、ゲイということになる。自覚し始めた頃は嫌だと思っていた自分のセクシュアリティも今ではむしろ良かったとさえ思えるようになった。
自覚し始めた時は、誰にもカムアできずにいたので、みんなの前ではノンケを装っていた。恋バナができないのはまだマシで、仲良い人にさえ、本当の自分を出せなかった方がストレスだった。多様性と謳われていて、セクマイが受け入れられつつあるが、嫌悪感を持つ人はいる。周りの人もホモフォビアだったらと思うとカムアできない。
自覚してから何年も経ったけど、カムアできていない友達はいる。恋愛対象が男性なだけで、今まで仲良くしてきた人にも嫌われてしまう可能性がある。本当の自分を表現するのに、嫌われるリスクがついてしまう。(本当はセクシュアリティで差別する風潮の方がおかしいのだが。)
また、日本では結婚(それに近い関係性)はどこでもできるわけではない。ナイモンやアンバードなどの出会い系アプリが主流になってきているが、それでもノンケに比べてゲイは人数が少なく、出会いの場が少ない。
このように悪い面があるけれど、それでも尚、ゲイで良かったと思うところがある。
仮に、同じクラスに好きな人ができたとしよう。好きな人のセクシュアリティは分からない。だから片想いのままになってしまうが、その人と親友と呼べるほどの仲になってしまえば、常に一緒にいることができる。例えば、体育の授業や部活前後などの着替えを見ることも許されるし、距離が近くても仲が良いと思われるだけで、セクハラにはならない。片想いなのは辛いかもしれないが、好きな人と一緒にいられる時間が長くなるのは良いところだと思う。
10代後半の時、少子化が問題視されているのが理由で、大人になったら結婚して子供作らなければいけないという使命感が勝手に与えられてる気がしていた。ゲイと自認してから、そういうなんとなくのプレッシャーから逃れることができた気がする。勿論、ゲイだろうと子供は作れるが、ゲイだからという理由で子供を作らない選択肢が許されている感じがする。その感覚を持つようになってから、ノンケの人はそういうプレッシャーに縛られていて大変そうだなと思ってしまう。
マイノリティを経験することができたことで、色んな人の価値観を尊重できるようになった。ゲイと自覚したことが、人の数だけセクシュアリティが存在することを知るきっかけになった。そして、セクシュアリティだけでなく、価値観や性格も人の数だけ存在するのだから、自分と違うのは当たり前だと教えてくれた。価値観が人と違うことを前提で話を聞いているから、基本的にどんな意見に対しても尊重できるようになった。
そしてなにより、ゲイだからこそ、ゲイという本当の自分を認めてくれる人が周りにたくさんできた。ゲイだからこそ、セクマイのコミュニティに参加して、ゲイの友達もできた。ゲイだからこそ、嫌われてしまうかもしれないというリスクを背負いながらも、カムアしてノンケの友達が受け入れてくれたことで仲が一層深まった。
ノンケを経験してみたい気持ちもあるので、次生まれ変わったらゲイとして生きたいかはまだ迷っているが、とりあえず今世はゲイであることに感謝している。
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